2024年4月20日。昨日は慶應の教授の中では珍しく面白い岩尾さんという人の初回授業だった。電車の遅延で遅れてきた彼は息を切らしながら「実は今日私の誕生日なんですよね。35歳」講堂は拍手で満たされた。4月19日。彼が生まれた日に、おれの親友は死んだ。20歳で。ポール・ニザンの小説は読んでいないが夭折した彼のことを思うとあの有名な冒頭の台詞が頭をよぎる。おれはもう22歳。彼の時は20歳で止まっているのに、時間は流れ続け、あれからもう2年も過ぎてしまった。不思議なもんだ。一緒に年を取っているはずだったのに。あれからの2年でおれは一体どう変わったんだろう。なんだが、ずっと燻っている気がしてならない。まだおれの人生は何も始まっていないような、そんな気がしてならない。それはおれがまだ、死を遠い存在のように生きているからかもしれない。あみんが死んで、クッキーが死んで、おれは身近な大切な存在を一年のうちに二つも失っているのに、まだ自分にとって死が身近に迫っている感じはしない。一体おれは、いつ死ぬんだろうか。明日だろうか。今日だろうか。それともこのままくすぶり続けて100歳まで生きてしまうんだろうか。分からない。自信を持ってそうならないと言えない。人は簡単に慣れていって、染まってしまうから。あれだけ死の瀬戸際を歩いているのような武でさえまだ存命のことを考えると、危なっかしいやつでさえ長生きしているパターンもある。でもおれは危なっかしく生きているわけでもない。バイクももう乗っていないし。健康で、夜遊びもあまりしていない。煙草だって一日三本くらいしか吸っていない。時々はもっと自分の命を削るような危うい生き方に憧れるけど、そんなことをする境遇にいないからふりをするだけ馬鹿らしく、普通に健康に生きてしまう。つまらないと言えばつまらないが、元からそんな面白い人間でもない。最近よく思うんだけれど、おれってなんて普通なんだろう。顔も見た目も性格も劇的なところは何一つなく、美しすぎもしなければ醜すぎもせず、無神経でもなければ繊細過ぎもしない。全ての要素を少しずつ持っているとは思うけど、全体的に見れば平均である。普通の大学生。なんて悲しい響きだろう。異質を感じさせる男でありたいと思うけれど、それはきっとおれとは縁のない資質だ。
まあ、普通でもいいか。結局、誰と比べての普通っていう話だし。おれはおれ、人は人。他人と比べなければ、普通なんてことはあり得ない。おれは特別で、唯一無二の人間である。誰にも変えはきかない。そう、もう死んだら全て無に帰るんなら、なんでもっと自由に生きようとしない。自由に生きろ、人からの評価や評判なんてくそくらえだ。どうせそんなものは身体と一緒に灰になってしまう。それが早いか遅いかの違いだ。だから、おれは自由に生きる、もっと自分の欲求や欲望に素直に。恥ずかしいことなんてない。恥ずかしいのはみんな一緒だから。だから、やったもん勝ちなんだ。
コメント