私とあなた、私と私。

2024年5月12日。4月と書こうとしてしまった。感覚よりずっと時は進んでいるらしい。新しいことがあまり起きず、学校とバイトの繰り返しになっている生活を送っていると、毎日が同じのように思える。そして全く時が進んでいないように感じてしまう。百年の孤独のブエンディア一家の者たちのように、どうしようもない孤独感を抱えて同じような日常を過ごした後、毎日が月曜日であることに気づくということになってしまいそうだ。昨日まで人形町で三連勤していて、今日が四連勤目。明日からは三日休みである。児玉さんが手術で入院しているから、今週来週は多めに入っている。

昨日、人形町の締め作業でゴミ出しをした時、ラーメン屋を一人で回している女の人にゴミ捨て場で出会った。女性一人でラーメンを作ってお客さんの相手をして、すげえなあと思った。可愛らしい人で、日本語が少しクセがあったから中国人かもしれない。その人と、昨日のランチ休憩中にラーメン屋の前を通った時にまた出会った。昨日見たより年が上のように感じたが、話したら全く同じ人だということを確認できた。その人に挨拶して、そのまま店から徒歩10分くらいの日本橋の花屋に花を買いに行った。今日が母の日だったから。水色のカーネションや色んなタイプの名前を忘れてしまった花を買った。いい感じのブーケにお兄さんが仕上げてくれた。

夜帰って寝ている母の部屋の前にそれを飾っておいた。翌朝気づくように。朝起きると、すでにそれが水に挿してあった。そしておれが名前を忘れてしまった花の名前もカーネションも見て名前が分かっていた。花に詳しいのはおばあちゃん譲りなんだろうか。珍しい花しかないと言って喜んでいた。

ヘーゲルの承認欲求について、人は、自分が世界に存在していることを確かめるために、他人から存在を認められる必要があるという。そしてその方法は他人と違うことをすることで大衆から自分を区別し、存在を主張しようとする。これは社会的に歓迎されることでも嫌がられることでも関係ない、とにかく目立つことが存在証明につながるという。その欲求は、万人に通づる。なぜなら、人は自分の内側でしか生きれないから。人は自分の外側で生きることができない。自分を外から眺めることも聞くこともできない。しかしこの自分ではできない自分を外側から眺めるという行為は、他人にはできる。だから他人の自分への評価を通して我々は初めて自分を認識することが可能になる。自分では鏡に映る自分の姿が見えて自分の声が聞こえても、他人が自分の存在に気づかないならば、存在しているという確証を失ってしまうだろう。自分を認識するために、他人が必要なのである。そう考えると、自分とは相対的でしかあり得ないのではないか。この世界に人が一人しかいなければ、自分という概念はなかったはずだ。もう一人の自分がいて、初めて「あなた」になるように。I&Iはこの本質をついているのかもしれない。本来自分と他人というのは相対的でしかあらず、絶対的なのは主観の中で生きている人間。私にとってのあなたはあなたにとっての私なのだから、I&I。これは自分も他人も対して変わらない、みんな突き詰めれば主観的な私であり、同じ人間なんだ。我々が色んな犬を全部犬として認識しているように、全ての他の生物は我々のことを人間として一緒くたにしているだろう。

結論はない。花の名前を思い出した。スターチスだ。

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