死はなんでもない

2024年3月31日。時が経つのはほんとうに速くて、あの時からもうあんなに経ったのかと思うことが山ほどある。一年前の今日はクッキーを火葬した日で、直美と拓也がビデオ通話してみしてくれた。便利な世の中になったものだ。さらに一年前のこの日はイザベル先生のフランス語の授業最後の日で、みんなで食べ物なんかを持ち寄ってお祝いした。夜はエチオピア出身のフィッツの家で酒を飲んで遊んだ。途中からマディが来た。初めて彼女と遊んだ夜。おれは彼女のことが好きだった。

今朝は七時ごろ目が覚めたからいつもより長く散歩をした。昨日は渋谷で通しバイトで、朝バイトに向かう道中できいた哲学ポッドキャストが面白かった。死はなんでもないというタイトルである。

死はなんでもない。生きているものが死を経験する瞬間はすでに狭間にいるため、我々が生きながら死を経験することはない。しかし死が恐ろしい。それは無になるから。おれにとって死は自分のものより人のものの方がずっと恐ろしい。なぜなら、自分が死んだ時にはもう悲しむ自分がいないが、愛する人が死ぬ時にはまだ悲しむことのできる自分が生きているから。そっちの方が辛いだろう。我々は他人の死に対して他人がもう生きられらないことを思って辛いというより、その他人がいなくなることでもたらされる自分の悲しさ、寂しさが辛い。だから死は本来その人自身にとってはそんなに悲しむべき事実でもないのかもしれない。なぜなら死は解放であり、生まれ変わりであるかもしれないから。それは死んだやつに聞いてみるしかないから、やはり死は生きているものには到達不可能の赤の他人である。なら、生きているうちは、その赤の他人を恐れて生きるより、生きていることに感謝して、ただ今この瞬間を享受するしかない。死を考えることは、生を見つめないこと。今を一生懸命大事に生きているやつは、そんなことを考える暇もないんだろう。

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